この世は空だった

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この世は空だった。空(くう)とは空っぽという意味。

仏教によるとこの世はすべて空でありそこに人間が意味付けをして世界が成り立っているといえる。

例えば目の前にガラスのコップがありそれはただのガラスのコップなのだが、好きな人がくれたり好きな人が口をつけたというとそこに人間は意味づけをして付加価値をつけてしまう。

そこにあるのは相変わらずガラスのコップなのだが本人には特別な意味を持つようになってしまう。

同様に誰かがポイっと新聞を投げてよこすとむかつく感情がわく。わくのは自然な反応なのだがそこでその場を去っても思い返して頭の中でその時の情景を繰り返し思い浮かべてむかついてしまう。

その新聞はもうほかの人が持って行ったのに頭の中に投げられたという情報で保持してしまうのである。

相変わらず目の前にあるのはガラスのコップだし、投げつけられた状況はもうさっきとは言え状況は変わってしまっている。つまりいろいろな状況は頭の中に存在しているのである。それで世界は作られている。

状況はどんどん変わっていってしまっているし、ただのコップが目の前にあるだけなのだが、脳内に残っている。これが世界だ。実際にはものが目の前に広がっているだけなのだ。意味づけをしているのは自分なのである。そしてそれが広がる世界は自分の頭の中なのである。

確かに相手も嫌な気持ちをぶつけてくる可能性はある。いやな気持ちを隠さずボンと新聞を投げることもあるだろう。事実としては相手が嫌な気持ちを抱き、新聞を投げたのである。それは事実だ。しかし事実はただそれだけである。

そこからはあなたがその事実から相手の感情を思い計り自分の中に同様の怒りがわくのである。ここまでも全自動だ。わくのは自然であってそれをわかないようにするのは得策ではない。

大事なのはわいた気持ちに気づいてそのまま流すことである。わいた気持ちをそのまま流すのである。としか言いようがない。

もちろん感情がわくのは誰でもそうである。それは人間であればお釈迦様だってそうだろう。お釈迦様のレベルになるとわかないかもしれないが。

それで感情がわいた状態でその感情をどこか他人事にああわいたなあと眺めてそのまま流すのである。相手にしない。ただそういう感情がわいているのを認識してただ流すのである。

感情も空であり感情という空(そら)に様々な感情の雲がわくがその雲が自分という空(そら)そのものではない。自分というものは空(そら)として確かに存在しているがそこに浮かぶ感情の雲は私という空にわいてきた感情に過ぎない。私自身は相変わらず空っぽなのである。感情は確かにわくがそれは私の中に浮かんできた感情であって私自身ではない。私自身は相変わらず空っぽのそらのようなものだしそこに浮かんできた感情は受け流せばいいのである。

そうしてわいてきた感情を眺めつつも相手にせずその場で流しているとだいぶ楽だ。

大切なのはそのそらの空間を認識して維持し続ける事だ。何者が来てどんな感情がわいてきてもそら自分自身は何も変化はない。そんな状態。ただ空でい続けるだけ。

その状態を瞑想状態という。

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