究極の自由とは

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楽になる方法が一つある。それはすべてを手放すことだ。実は世の中は自分にとって関係なく動いている。気分が沈むことがあれば気分は沈むし嬉しいことがあれば嬉しくなる。そうした物事は自分とは関係なく起こることだし自分がなにかしようといった感情も自分の意志とは関係なく起こる。今日はハンバーグを食べようと思ったとしてもその考えはどこからともなく湧いてきたのであってだからこそ人はハンバーグを食べたいと思う。ハンバーグを食べたいという気持ちは湧いてきたから湧いてきたのであって今からわかせようと意識したわけではない。そうした意味では人間にできることは何もなく全ては起こることが起こっているに過ぎないという事がわかる。もしそのことを腹に落とせたとしたらもはや自分には責任を背負い込むことはなにもないという気持ちになる。そうした完全に起こることが完全に起こっているとした時とてつもなく自由になる。

実は人は自由だとかえって不自由だったりするかもしれない。今や情報は何でも手に入る時代になったがかえって何を得ればいいかわからない。自由な時間ができても何をしたらいいかわからない。逆に修行僧やシスターなんかは戒律がとても厳しいそうだが精神的にはとても楽だそうだ。制限されるからあれこれ考える必要がないらしい。究極的には人間には全くの選択の自由がないというこの事実がもし腹に落ちたのなら責任は全く取る必要がなくなる。全く自由がないということは全く責任がないということなのだ。自分とは関係もなく物事が動いているのだから自分にはその責任もないのだ。

そういった考えに立つと実はわたしたちは何も選べないしただ起こることが起きていて責任も取りようがないというのがわかる。一見すると自由に選べてその責任も私達が取っているように見えるが実は自由に選んでいる気になっていて責任も取っている気になっているだけなのだ。そうなるとわたしたちに選択権はなく責任を取るすべもないとわかるとすべての重みが消えてなくなることになる。その時人は完全に自由になる。

フランスの言葉でケ・セラ・セラという言葉があるがこれはなるようになるという意味だけれども、実際なるようにしかならないので私達はなんの責任も取る必要がない。もちろん法的責任や制裁は受けるのだがそれすらも起こっているだけであってなんの責任も感じる必要もない。これは究極の自由だ。

逆説的だが私達には全くの自由もないということを理解すると究極の自由を知るだろう。

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